昭和54年01月15日 朝の御理解
御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
これはどこまでも、信心のない人でもこの通りだという事なんです。信心があるものは、この通りだけではいけないわけですね。そういうせんのは持たせるのは、ただ顔を綺麗にするばかりではない、辛い悲しい時に、鏡を立てて、悪い顔を人には見せてはならぬぞと、親が子に持たせる親の願い、親の思い、これは信心があるものでも無い者でもやっぱり同じ事。
だから信心があるものはこれを信心で一つもたせなければならない。昨日はこの田中さんところの二番目の娘さんが、お嫁入りを致しました。で、其の前の日に、本人達が姉妹でお願いに参りましたときに、御神米に「水の心一心」とお書き下げを頂いた。それから、昨日、お母さんがお礼に出てみえてのお届けなのです。ここの福引を頂くのに、来ていなかったから、自分が引いて帰ってやった。娘に。そしたらやっぱりその水の心にという事じゃったそうです。
それを持って、頂いておるのに、ここにお書き下げをその、水の心一心と頂いたのですけれども、娘が大変喜んでから、お母さんこれでいく以外にないねというて喜びました、というてお届けをいたしました。それで私が、あの、お神様をお供させよんのと私が言いました。御神米は頂いておるばってん、一番大きな御神米入れをあれをね、求めてあれに御神米を収めて。
それこそまあ向こうが信心が分かんなさらんならば、タンスの開きの中に入れてからでもよいけん、拝められる様に御神米入れの大きいのをね、持たせてやりなさいよと言うて、昨日申しました事ですけれどもね。私はこのご理解はどこまでも信心の無いものでも同じでしょう。親の思いというものは。ね。そういうこれは昔流の今時はもうあんた気に入らん時はすぐ出てこいちいうごたる親もおるごたるらしいですけれどもね。
だからそりゃ時勢の相違ですけれども、親の思いというものを持たせてやるという、これは普通一般の話。だから信心のあるものは、勿論その鏡も持たせてやる、それこそ田中さんところじゃないですけれども、あれもこれもと揃えた上にもまた、これはこん位でよかたいち、しとった所がそれがちょっと傷がいったけん、また買いにいってまた新たな別なお道具を買わせて頂いた、と言った様なお届けもあっておりましたけれども。それこそもういっぱい持たせてもやるし。
親の思いも着けてやる訳だけれども、それだけなら信心のあるものも無い者も同じ事じゃ。ね。やはりその信心を持たせてやる。しかもこの生き方で行く以外にないよ、と言う位な信心をこのたび、いうなら正月の福引をたまたま水の心でという事を本人が頂いて、それまではその感じなかった。ところが自分が参ってきておる時に、水の心一心というそのご理解をこんこんと頂いて帰ってもうこれはいよいよお母さん、これで行く以外にないよと喜んだとこういうこれを持たせてやらなきゃいけんのですよね。
田中さんの日頃の信心が娘の嫁入りの時にそう言う様な働きになって来る訳でございます。そこに、信心のあるものと無い者のいうならば、この八十八節がこれならば信心の無い者でも言う事だ。信心のあるものはこれを黙って治める。他に黙って治めると言う様な意味の事が書いてございます。悪い顔を見せたりせずに、黙って治めていかなければいけないよと。その黙って治めるという事がどういう事なのか、その為には水の心で行く以外にはないよ、土の心で行く以外にないよという生き方をね。
しかも信心をね、それこそ家で拝めない、正面から拝めないなら、自分の部屋に入ってでも拝めるように、ちゃんと親が、それだけの信心を持たせなければいけない、というのが信心だと、私は思う。そこんところを私は、自分自身が頂かなければ頂けない。本当に信心のあるものと無い者というと、そういうなら娘も、信心がない訳ではないけれども、お母さんの熱心な信心が、いよいよの時にそういう働きが起こってくる、と言う事が素晴らしいですね。
これからまあ結婚するのに良い事ばかりはなか、という時も色々あろうけれども、その時に本当に、嫁入りがけに親先生から頂いた、福引で引き当てておった、はあこれで行く以外にないと思うた事をまた改めて思い出させて頂いて、金光様金光様で水の心になって行く様なおかげを頂いたらね、それを持たせてやる。昨日は井上太郎先生のお父さんにあたる方の二十五年の式年が、ここでご親戚の方達が皆集まって、本当にそれこそ願い以上、思い以上の働きを受けながら、昨日三時からお祭りをさせて頂きました。
もう一年も前からお取次ぎを頂いてあれやこれやとお願いをさせて頂いておられましたが、そういう働きが起こってくるとこれは特に、合楽の信者の上に特別な働きがあるように、合楽にご縁を頂いておる御霊達、特に教徒というように、改式のおかげを頂いておる御霊達のその、まああちらでのおかげを受けておる様子というものをいつも皆さんに聞いて頂くように、もう、自ずと信心を進めなければならないような手立てがちゃんとあの、指導してあると言うことをね。
昨日は御霊の精進と、遺族の者の思い、真心とが一つになって今日のお祭りが出来たということを頂いたのです。だから御霊様が一年も前からお取次ぎを頂いておるか、どういう修行をしておるかというと、これは人間誰しも同じようなものですよね。例えば恵まれすぎて、例えていうなら、食べ物なんかでも、好きなものがいっぱいこうありますとね、ついつい食べ過ぎるでしょう。あぁ食べ過ぎたちいうてから、こうこうお腹どん叩きよる。これでは恵まれすぎて折ることが体を壊すことになるのです。
そういう時にです、恵まれておる事の有り難さをまず思うて、そしてそれを例えば腹八分なら、腹八分、もういっぱい飲みたいところを抑えておく。まあいっぱい食べたいところを抑えて、腹八分でおると、本当今日は美味しかった。体、腹の具合もよかということになるでしょうが。そういう修行をしてきた時、ね、御霊様が、つついっぱいのおかげを頂かずに、ずっと抑え抑えしてからの精進をしてきた。そういう精進と、これはどうぞ皆さん、皆さんの場合でも同じですからね、ここは。
御霊であろう、魂の世界であろうが、肉体の世界であろうが同じです。私共は恵まれすぎるとついつい手を出しちゃならんところに、手を出したり、または、もう、食べんでもよかんもんで、これならいっちょ食べてみろうかと言う様なことで体を壊すようなことになったのでは、恵まれておるが故におかげを落とすと言った様な結果になるのですから、いつも精進の心を忘れてはいけない。
しかも御霊なら御霊なりにそういう精進をさせてもらう、なら遺族のものも、一年後にはいつはいつはとその思いを込めて、そこのお祭りを仕える時に、その思い真心と御霊の精進が一つになって思いもかけない有り難いお祭りになるのだよというご理解を頂いたのですけれどもね。信心のある者と無い者、いうなら本当に御霊となっても合楽にご縁を頂いておる御霊、でない御霊。
改式のおかげを頂いておる御霊、でない御霊、信心のあるものとないものの違いと言う様なものを、例えばこの八十八節からです、ね、これだけ、このご理解を読んで聞いてくださっただけならば、信心のないものでも、同じ事を言うでしょうし思うでしょう。けれども、これを信心で頂いた時に、または、信心を持たせてやる時に、田中さんの例じゃないですけれどもそういうおかげになってくるわけですよね。
だからあんたがその気でいくならお母さんも安心と言うことになってくるじゃないですか。そこに何ともいえん働きが受けるわけです。御霊、魂が受けておるように、なら田中さんところの娘もやはりそういうお母さんの信心によってそういう、これでもかこれでもかと示してくださるのですから、やっぱり感じんわけにはいけんです。そしてもう、今日のお書き下げを頂いてから、本当にそうだと感じた。思うて嫁入りをすると言うことになるのです。私は今朝からもう本当に慄然とするようなお夢を頂いた。
というのは、二階か三階かごたる家に、誰かがいっぱいおりますところ、ちょうど西のほうの窓を空けたらちょうど久留米がもうそれこそ、戦時中にあの、久留米市が灰になった時のようなああいうのはこういうことじゃなかろうか、とにかく、久留米市が紅蓮の炎に包まれておるというようなところなんです。私はどこからみてもあの、美しかごとまいよるというて見よるとです。
で誰かがその、窓にうっぱまって見よるもんじゃけん、あんたがそのうっぱまって見よるなら、こっちから見えんじゃんのち、いうてから私がそればおごりよるところでした。ちょっとこう下を見たら私のもう、私より、もうちっと頭が良かったけれども、その人の家族が向こうにあって、そのおばあさんが、何か、折り合いが悪かかなんかちいうて、小屋のごたる家を建ててから、そこに下に住まっておられるのが、この窓の下に見えるわけなんです。
それで私が、はぁあげなほんなもう、せんぺいごたる布団敷いて寝ちゃるけんで、布団を一揃え持っていってやろうと思いよるわけ。はあそればってん、あっち息子どんがかえって、気持ち悪いどんするといかんけんで、止めとちいいよるお夢でした。それからあ、孫達がその、高、てすりがこうぶらぶらしよる。そこでそ、遊びよる。だからもうそこでいっちょ、危な、おて(落ち)どんしたらどうするの、こげん高かところから、もうそれが心配で心配で、たまらんもんだからおごりよる。
それで言うこときかん。これはもうこれどんこげん言うこと聞かんなら、どっか宿替えなっとしじゃこて、というて心配しよるところ。もう本当にそう言う様な、久留米が半分燃えよるとじゃなかじゃろうかと言う様なにあたっても、祈ることもなからなければ、まあちょっとした、親切心で布団を持っていってやろうかと思いよるけれども、また息子どんがそれを、反対とって悪いどん思うたりするといかんけん、やっぱ持っていってやるめと思うたり。
そ子供達が遊びよるとがもう気になって心配になって、もうやかましいうておごりよるけれども、言うことは聞かん。そんならこれはどっか、もうちっとよかとこに、その宿替えどんせじゃこてというようなお夢でした。もう慄然とするでしょうが。信心しよる者の心というものでは全然なか。神様のご守護の中にある、例えば誰かが、おごりよっても、いいやほうからかしておきゃよかですがとこういえる。
もしそんなら、そういう向こうの方に、火事がありよるならばとにかく、さあ皆一緒にご祈念せにゃおられないほどしの事を教えられておりながら、ね、そしてそれをうっぱまってみよる、まるっきり見物しよる。あんたがそげん所によっぱまっとるなら、こっちもなら、見えんじゃんのというて私がおごりよるところです。またその友達のお母さんに布団を持っていってやろうと、もうどの事もこの事を言うても、現在の私の心とは似ても似つかない心の状態のところを頂いて。
はりゃ自分にあげなところがあるじゃろうかと思うて目がさめたら、信心がないならばこうぞと頂いたです。信心のあるものと無い者というものは、本当いうたらそんなに違うごとなってくるです。心の状態が。自分さえよかればよい。自分方孫だけが助かればよい。よそが焼けよったっちゃ、それこそ見物しよるような心。浅ましいというたら、本当に浅ましい信心のいうなら、教えを頂いて、ここまで、高められ、ここまでに、おかげを頂いておると言うことをです。
いわゆる信心のあるものと無い者のそういうはっきりそこに見る気が致ましたが、皆さんの場合どうでしょうか。信心させて頂く様になったら、詰らん事に心配不安、他所の事にはりゃ気の毒なこっちゃあるなち言うてから、見物しよる様な気持ちはなかろうか。ね。親切であると言う事は分かっておりながら、又人がどうか思いどんすると、却って親切が仇になっちゃいかんけんでというて止める様な事はなかろうか。
それこそにんにくの臭いをプンプンさせるような今日の合楽においてそういうことは許されない。例えその臭いを嫌われてもこの味を覚えたら人間が例えば幸せになると言うことが分かったら、祈りもする又は、示現活動にもならせてもらえると言う様な生き方が出来て初めて、いうならば合楽で信心を頂いている者、でない者の違いをそこに感じるようなおかげを頂きたい。私は今日は八十八節を頂いて。
これは、信心の無い者でも、娘を嫁にやる時の親心がといてあるだけで、ただ腹は立ばってん、鏡を見てからにこにこしておるというだけではそれは必ず、ね、溜り溜まって爆発する。けれどもそこに信心のあるものは、ここを土の心で、水の心でと言う様な頂き方をする所から、必ずそれが力になるだけではなくてです、それが必ずおかげの元になる。黙って治めると言う事がです。どの位素晴らしいおかげになるかという体験が頂けれると思う。信心のあるものと無い者の違いをです。
私はそういう、このご理解の中から昨日田中さん床ろのお嫁入りの例と。それから昨日、井上先生所の霊祭の、これは魂の世界にあってもあるものとないものがこんなにも違うと言う事と、もし私共に信心がなかったならば、私が今朝お夢の中に頂いた様な私で成り果てておったに違いないと思うたらね、改めて信心を頂いて折る事の有り難さに、それこそお礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りんという心の状態が開けてくる。そこから次の良い信心もまた生まれてくると言う事になりますでしょうね。
どうぞ。